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鈴木 芳雄のエッセイEssay by Suzuki Yoshio

鈴木教授のヤンゴン日記(過去編) --その1--

by 鈴木 芳雄

1998年3月13日(水)記

今日は珍しく午後2時頃から1時間ほど激しい雨が降った。一時は雷鳴も轟いて沛然たる豪雨という感じになる。名も知らない南国の大樹が折からの雨風にあおられて大きく揺れている。気温も下がり、辺りが急に涼しくなったので、廊下に椅子を持ち出して、暫しこの雨を眺めながら、異国情緒に浸る。

ここヤンゴンは連日暑い日が続き、人も周りの植物もぐったりしているように見える。日中の気温は43.4度と報じられている。午後2時頃学校から帰ると、クーラーの消してある居室の温度計は大体34度位を指している。クーラーを入れると30度位まで下がるがそれが限界で、後は日が落ちても変わらない。一晩中つけたままにしているが、翌朝5時頃にはいつの間にか27.8度まで下がっていて、ベッドにセットした蚊帳の中はひんやりとして気持ちがいい。

もっともこの猛暑は日本でも最近よく耳にするエルニーニョ現象による異常とかで、例年より4週間ほど雨期入りが遅れているせいのようだ。暑さによる事故も多発しているようで、新聞は連日「日中、水浴びをしてはいけない」「クーラーの利いた車に急に乗ってはいけない」「酒を飲んではいけない」等とかなり細かい注意を呼びかけているとのこと。学校の教室にはクーラーが設置されているところもあるが、停電や容量不足による作動停止が頻発して本来の機能を発揮していない。停電となると天井にセットされた昔ながらの扇風機も廻らない。そんなわけで早朝7時から定時制クラスの授業はともかく、日が高くなってからの全日制の授業は先生にも生徒にもかなり忍耐を要求する。

毎日が40度を超す生活は私にとっては未知の世界で、我ながら良くやっていると、誰かさんの台詞ではないが、自分を褒めてやりたい気分になる。この雨を現地の人達がどう見てるのか見当もつかないが、素人目には雨期入りの予兆のように思えるが・・・。

1998年3月25日
書生

書生とは何とも古風な言葉だが、ミャンマーの男性にはこれを彷彿させるような風情の人達がいる。それが南国のキャンパスによく似合うから不思議だ。彼等を見ていると明治大正の風景を見ているような錯覚にとらわれる。

ミャンマーの成人は皆ロンジーというものを腰に巻き付けている。勿論巻き方は男女間で異なり、それぞれには一定のルールがある。ここで触れるのは男性の方だが、細身の体で、結び目を腰骨の位置に決め、生地による差なのか裾が少し広がるように着用していると、遠目には袴をはいているように見える。特に白っぽい長袖のシャツを着て、本などを脇に抱えた姿は昔の書生そっくりである。

ミャンマーには学校、企業、家庭を問わず、それぞれに下働きをする人達が雇われている場合がある。本学の日本語科にもそういう男性が2人いる。書生という呼び名にならって古風にいえば、さしずめ学僕というところか。2人とも一見書生スタイルだが総てに正反対で、一方は背が高く、かつては日本語科に在籍していたとかで日本語が上手、皮膚の色はやや黒く精悍な顔立ち。もう一方は背が低く、日本語はまるで駄目、皮膚の色は日本人並で温厚な顔立ちといった具合。私はこの2人にはいつもいろいろと厄介になっている。ダウンタウンの郵便局や役所に行く時は、背の高い方の彼が付いて来てくれる。ジープによる学校への送迎は背の低い彼に世話になっている。この送迎はいかにもミャンマー的で面白い。日本と違って、運転手はあくまで車を運転するだけで、送り迎えをする人は別に乗っていて部屋まで迎えに来てくれる。

ある時学校の帰りに近くのスーパーに寄って食パンを買った。私がレジで勘定を払ったら、彼が脇からさっと食パンを受け取るではないか。私は気が付かなかったが彼はちゃんと付いてきていて、当然の行動をしたまでだが、私はこんなことには全く馴れていないので大いに面食らう。しかしとっさに態勢を立て直し、彼を従え胸を張って歩き出す。端から見たら実に滑稽な場面で、苦笑をこらえつつ戸口に向かう。外に出ると今度はさっとジープが横付けになった。

1998年7月25日
私の海外ボランティア活動

私は今ヤンゴン外国語大学(UFL)でVisiting Professorとして日本語を教えています。期末休暇を利用して7月21日に帰国しましたが、これから2ヶ月間、自らをリフレッシュしたり教材を集め等した後、9月中旬には戻る予定です。

今ミャンマーの大学は皆封鎖されていますが、UFLだけは公務員の外国語教育を担当しているので、唯一オープンしています。学生数は約1000人で、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、韓国語、日本語、インドネシア語、マレーシア語、タイ語等の科に分かれています。なかでも日本語科は学生数が最も多く、半分の500人ぐらいが所属していて、この国の日本語熱の大きさを表しています。

学校は週5日制で、私は100分授業を5回受け持っています。私に対する給与は、宿舎及びそれに付随するユーティリティーの無料提供、学校・宿舎間の送迎、食費の支給といったところで、これらは私の方から前もって要望したものです。食費としては10,000チャット(30USドル)/月 支給されていますが、物価は安いので何とかやっていけます。日本との往復旅費は個人負担ですが、この辺がボランティアのボランティアたる所以です。

私は現役の頃から、退職後は気ままな形で外国に長期滞在し、その国の価値観のなかで生活することにより、自らを再認識し、第2の人生をエンジョイしたいものと念願していました。今、その夢が叶い、充実した気分で毎日を過ごし、更に胸をふくらませています。

私は今ある海外ボランティア団体に所属しています。その目指すところは、海外で日本語を習いたいという人達がいれば、手弁当で出かけていって、教えようというものです。日本はバブルの崩壊以来、方向性を見失い、右往左往していますが、そんなことには頓着せず、依然として日本に熱い眼差しを向け、日本語を習得したいと願う人達が世界中には沢山います。特に東南アジアに多く、そこには熱気さえ感じられます。何とも皮肉な話ですが、日本にとってこんなラッキーなことはありません。これこそNGOの海外ボランティア活動に適した領域で、このことに関する意義はすこぶる大きいと思います。日本は明治の開国以来、世界に目を向けてきましたが、アジアを軽視してきたという点では、戦前も戦後もあまり変わっていません。今、日本が陥っている閉塞感も、案外この辺に原因があるのかも知れません。今度こそ、民間の草の根レベルの交流を積み上げ、アジアの一員としての地歩をしっかりと固めたいものです。

話は一寸横道にそれますが。所属団体で所定の研修を済ませ、いよいよ行動段階に入るわけですが、その時になって団体の規模が余りにも小さく、何とも心許せないことが分かり、一時は逡巡する羽目になりました。しかしこのことが糧になって、頼れるのは自分だけとの信念を持つことにもつながり、果敢に行動することの大切さを学ぶ結果にもなりました。昨年は中国吉林省の琿春で半年間、今年は4月からミャンマーで、それぞれ日本語教師を務めていますが、年齢のことを考えるとこの先そう長くは続けられないでしょうから、元気なうちは頑張りたいと思っています。とはいえ外国へ行くわけですから心配ごともいくつかあります。家族のこと、とりわけ家内のこと、自らの健康のこと、現地の治安のこと、そして費用負担のこと等ですが、これらがいつ阻害要因になるか分かりません。

今まで現地にいて辛いと思うことなどありませんが、現地の言葉がなかなか覚えられまい歯がゆさを、中国の時も今回のミャンマーでも味わっています。現地語の習得は念願のかなりな部分を占めますが、なにしろ学校にいるときは日本語で総てが足りるので、ついおろそかになります。授業時間中に、外国語の学習はかくあるべしと、もっともらしいことをいいながら、自らの現地語習得にそれを生かせないのは、何とも滑稽で、一人苦笑するのみです。外国語の勉強は、その国で苦労するのが一番と言われますが、私の場合は、異国にいても周りが私に日本語を求めるという特殊な環境にあり、それが裏目に出ているのではと、努力不足を棚に上げて、勝手な解釈をしています。

今まで、同じ仏教国というくくりで日本とミャンマーを見てきましたが、実際に行ってみて随分違うのに驚かされます。例えばミャンマーには酒を飲む習慣がありませんので、現地の人と宴会をするチャンスは先ずありません。この辺が中国の時とは大違いで、当初はとても寂しく感じました。しかし馴れてみると、それなりに対人関係がすっきりし、効率の良いものだと思うようになりました。しかもその分酒量も減り、体重の維持も楽になるというおまけまで付きました。価値観の異なる社会で生活し、異国体験を満喫することはとても楽しいことです。

© 鈴木 芳雄

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