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橋本 裕一さんのエッセイEssay by Hirokazu Hashimoto

日本人戦没者慰霊碑再訪

by 橋本 裕一

ミヤンマーの首都ヤンゴンから 北方に約220−230km離れた旧Prome(プロム)市から大河Irrawaddy(イラワディ)河をはさんだ対岸のSinde(シンデ)は、私が生まれて経験した海外生活をした、初めての海外駐在場所であった。そのシンデから南方に、車で約15分ほど南へ行ったPadaung(パダウン)という小さな町の町はずれのシータ地区に、高さ1.5メートル余りのその小さな日本人戦没者慰霊碑はある。当時駐在していた我々日本人グループが作った慰霊碑である。


慰霊塔。橋本さんと駐在当時に雇っていた中国人コック

今回のミヤンマー旅行で、久しぶりにシンデ地区を訪れたのを機会にこの慰霊碑を二十数年ぶりに訪ねてみた。


私のシンデ駐在中の1979年であったと記憶するが、そのパダウンに日本から20-30名程度の戦没者慰霊団が訪れてきた事があった。


ラングーンから慰霊団が来訪するとの連絡があったので、シンデの河岸に出迎えてみると、第二次大戦中にビルマに派遣されていた元兵士たちであった。第二次大戦中の元兵士たちなので、メンバーの全員が当時60歳半ば以上の年齢であった。


ラングーンからの連絡では戦没者慰霊団ということだけで、詳しく事情は判らなかったが、来訪された人たちの話を聞くと第2次世界大戦当時、ビルマに派遣されたインパール作戦の後方支援部隊の人たちであり、元『独立自動車第55大隊』の生き残り兵の人たちであることが判った。


首都ラングーンから遠く離れたこのかたいなか近辺に居住する唯一の日本人として、場所の案内やその他のお世話をすることになった。慰霊団の方々から当時の話をいろいろ聞くことができた。


我々の駐在しているシンデ 地区に戦争中に日本軍の兵站基地があったこと、このシンデ地区をベースにして、イラワディ河西岸からインド洋側にあるアラカン山脈を北上して越えて援蒋ルートの遮断を目的として、日本軍がインパール作戦の実行にインパールヘ攻め上って行ったことなどを、私は歴史としておぼろげながら知ってはいたが、このとき慰霊団から直接聞いて、初めて事実として改めて実感したのである。


(後に本を読んで知ったのであるが、3ルートほど有ったインパール作戦のルートのひとつが、我々が駐在していたシンデを通ってアラカン山脈越えルートであったそうである)


当時は、我々日本人が仕事をしていたのは、ビルマ政府第2工業省傘下の重工業公社の第3工場(シンデ工場であった。日本政府の戦時賠償から始まった経済援助からスタートして、既に十数年の実績を経て、従業員約二千数百名の規模にまでなっていた。工場建設当初の基礎工事の際には、土の中から旧日本軍の水筒、背嚢、ヘルメットや軍刀等々が数多く出てきたとの話は、数年前にこの地に駐在した先輩から聞いていた。この近辺が第二次大戦時代に兵站基地であったとの話を、実際に戦争当時の兵隊であった慰霊団の人たちから聞いてなるほどと納得したものである。


また、我々日本人の宿舎には、戦争当時の日本軍の軍票を持って訪れて、軍票を買い取ってくれないかと訪れる近隣の村人が時々あった。恐らくは、戦争時代に物資調達の支払いや徴用の日当の支払いに日本軍が使った軍票を未だに持っていたのであろう。近隣に日本人がいるのでこれを買い取ってもらえないかと思いやって来るのである。


戦争当時の日本軍の軍票

慰霊団の人たちを、4輪駆動のジープで曲がりくねったデコボコ道をやっとのことで希望の地区へ案内すると、50−60歳の年配のビルマ人の村人が現われ、慰霊団の人たちは、『おお、小次郎元気か!』とか『石松よ、年をとったなあ!』とかと言って懐かしそうに話をされていた。慰霊団で訪れているひとたちは、当時は村人たちをその様な名前をつけて呼んでいたのであろうか。


或る村人は、おぼつかない日本語を思い出し思い出ししながら、『山本上等兵殿はどこにいますか?』、『福永軍医殿』などと約30-40年ぶりの再会を懐かしんでおられたのを記憶している。


慰霊団の或る人は(聞けばどこかの県会議員だそうであるが)、これらの村人をさして、『橋本さん、この土人たちはね・・・』とか、『ここの土人の食べ物はね・・・・』とか、盛んに『土人、土人』という言葉を使っておられたのが妙に印象に残っている。30数年前の当時の日本軍は、これら現地人を『土人』と呼ぶのが通常であったのであろうか・・・。 この人以外の慰霊団のメンバーは『土人』という言葉を使ってはいなかったが・・・・。


ステンレスに慰霊の碑文(ビルマ語)を刻んだ慰霊碑。
橋本さんと中国人コック

この慰霊団が日本に帰国されてから、私に一通の手紙が届いた。


『来年も慰霊団を組織してパダウン地区を訪問する予定である。このメンバーもそれぞれに60-70歳の年齢であるので次回が恐らく最後のビルマ訪問になるであろう。就いては、日本をはるか離れた異国で命を落とした戦友の霊を弔いたく、次回の訪問時には慰霊祭を行いたいので、是非とも協力をお願い致したい』との趣旨であった。


これを当時シンデに駐在して、農機・家電品・自動車の組立・製造の技術指導をしていた、クボタ・松下電器・マツダの技術者たちに話すと、同じ日本人として是非とも協力しようと衆議一決、慰霊祭に協力する事となった。
十数名いた日本人技術者の中には、ビルマ派遣軍の一員として命を落とした人が親戚にいる人もいた。


また、『私は、今は小さな子供と家族を日本に残して、このビルマの辺ぴな片田舎で仕事をしている。今の時代に日本政府の経済援助事業の一員として派遣されて、身分は保証されている。しかし、生きて帰れるかどうかわからない戦争中のあの当時に、こんな遠い低開発国の辺ぴな田舎まで戦争に派遣された人たちは、どんな思いで派遣されて、どんな思いで死んでいったのかを考えると、是非とも協力すべきである』と言う駐在員仲間も人もいた。我々もみんな同じ思いであった。


実は、当時31歳の私自身も、生まれての11ヶ月の初めての子供と妻を日本に置いての単身駐在であった。夜には満天の星を仰ぎ眺めて、日本に残した妻と子供を想った夜も少なくはない。


(空気の澄みきったビルマの乾期の夜は星空が実に美しい。周囲には灯りひとつないまさに漆黒の夜の空は見事である。空にはこれほどまでも無数の星があったのかと思うくらいであり、“満天に降るような星空”という言葉は、まさにこの星空を表現するためにある言葉であろうと実感するほどである。そんな夜空を見れば、なぜか日本に残した子供と妻をよけいに想ったものである)


日本からの慰霊団の要望に応えようと、さっそく我々は準備にとりかかった。


日本の慰霊団のリーダーからは、あれこれ希望を手紙で言ってくる。しかし、日本からの手紙が届くには通常は約3週間も掛かり、それも途中紛失で、10通に5通程度が歯抜けのようにしか届かないのが、残念ながら当時のビルマの実情であった。


僧侶も呼んで、慰霊碑も建てて、地区の名士・有力者も呼んでと、日本側はかなり大規模に慰霊祭を催そうとの考えであるらしかった。歯抜けのクシのように途切れ途切れにしか届かない手紙では、その内容も断片的にしかこちらには伝わらない。


しかし、ビルマの政治体制では、この様な催しを、しかも外国人が行うのは容易ではない。


地方役所の許可を取らねばならい(この事情は今も変わらない)。一党独裁の当時の独裁政権与党のビルマ社会主義計画党の地方支部の許可を取るのが最も大事であり、この許可がなければ何もはじまらない。しかし、その地方支部に相談に行くと、「過去にその様な例はない」とか、「首都のラングーンの本部の許可が必要である」とか言われてなかなからちがあかない。これらの事情を手紙で日本側に連絡しても、先に述べた様な手紙事情である。思うように意向が伝わらないし、この特殊な事情をなかなかわかってもらえず、これには相当苦労した。


一方、 慰霊碑を建てるにも、物資の無い国で、しかも辺ぴな田舎である。レンガ、セメント、砂利、鉄筋等が一般市場では全くと言っていいほどほとんど調達できない。


当時は、我々の働く第3工場ではちょうど鋳物工場の建設中であったので、やむなく第3工場の工場長に事情を話して協力を要請した。


工場長は、「それは同じ仏教徒として、心情は理解出来るし良い事である。建設中の鋳物工場の資材を提供して協力しよう」との快諾を得た。これら資材を少し分けてもらえるだけではなく、必要ならば運搬にトラックなども使ってくれとの親切な申し出までももらえた。


慰霊碑の図面と周辺の土地の整地用の図面は、その当時、鋳物工場の建設に派遣されているクボタの建設技術者が書いてくれる事になった。雨期と乾期で湿度と温度の変化が激しいこの地域なので、通常のコンクリートは年を経るとすぐ駄目になる。これを防ぐためにセメントと砂と砂利と水の配合を細かく指示し、中に組み込む鉄筋の配慮までして図面を書いてくれた。さすがであったし、これは助かった。


資材は、日本人駐在者が、終業後とか休日に車で15分程度の慰霊碑の候補地まで運んだ。現場ではバケツリレーで砂や砂利を運んだり、道路から少し下がった現場に降りる坂道を整備するのにレンガを敷いたりもした。すべて派遣されている我々日本人が行った。


周辺の村人は日本人が一体何をするのだろうかと思ったのであろう。我々が行って作業をするたびに大勢が集まってきて、彼らは日がなのんびりと眺めていたものであった。


又、ビルマでは高温多湿の気候で通常の鉄板ではすぐに錆びるので、ビルマでは貴重な錆びないステンレス板を工場から特別に提供してもらい、工場の工作機械でビルマ文字で碑文を彫って碑文の銘板を作り慰霊碑にはめ込んだ。


セメントなどの資材は親切にも提供してもらえたが、なにぶん我々が仕事をしている工場の資材であるので多くをかすめ取るわけにもゆかず、はなはだ小さいながら心のこもった高さ1メートル20-30センチほどの慰霊碑と、レンガ作りの上に漆喰を塗った石像を納める2メートルほどの高さの祠(ほこら)が出来上がった。


我々が作った祠(ほこら)。橋本さんと同行の友人、中国人コック

慰霊団の人たちが翌年に2回目に来訪されて際に、おこなった慰霊祭は盛大であった。


近隣から大勢の人が集まり、慰霊碑の周辺は黒山の人だかりであった。


ビルマの僧侶がビルマ式のお経をあげ、慰霊団の中で僧職にある日本人が日本式のお経をあげた。慰霊団の中で力士のように最も体が大きく豪放磊落な性格の人(静岡県の産婦人科医だという菊池さん)が追悼文を読んだ時はまさにハイライトであった。追悼文を読んでいるうちに、菊池さんは、あたりはばからず大声で泣き出したのが最も印象的であった。亡き戦友の名前を読みあげながら読んでいる内に思わず感極まったのであろう。


ビルマの人の考えでは、人の死は黄泉の国へ旅立つ、お釈迦様のもとへ召されるのであって悲しむべき事ではない、という。だから、ビルマの葬式は日本のように涙での湿っぽさはなく、静かな笑顔で見送る習慣があり、且つ年配者を敬うビルマである。そんな国での60代半ば過ぎの年配の堂々たる体躯の日本人の菊池さんのこの号泣には、そんな考え方の黒山の人だかりのビルマの人々は奇妙な顔をしていたのを記憶している。


死者の霊を弔いビルマ人の踊り子の踊りや色々なお祈りなどの華やかな慰霊祭は無事終わったのであるが、当日私には頭の痛い事があった。


日本側から、男女一対の大理石の石像を祀って欲しいとの依頼があった。この依頼に応えようと、ビルマでの大理石の産地である北部Sagaing(サガイン)に近いビルマ第2の都市であるMandalay(マンダレー)にその大理石像2体を発注してあった。
工場にちょうどマンダレー出身のマネージャーがいたので、彼を通じて慰霊祭に間に合うように発注してあったのである。しかし、なにかにつけてのんびりしたビルマのことゆえこの石の仏像の到着は遅れた。督促に督促を重ねてもこれが届かないのである。結果として、とうとう慰霊祭には間に合わなかった。


慰霊祭の当日に、慰霊団の団長には平謝りに謝って事情を理解してもらったのだが、何ともばつが悪かった。実際には、慰霊祭が終わって2-3ヵ月後に漸く到着し、その写真を日本に送って納得してもらった。


(慰霊祭及びこの辺の事情は、この慰霊団の団長であり、戦争当時は軍医であった福永勝美氏が書かれた、昭和59年雄山閣出版の『ビルマの地獄戦』に詳しい)


その懐かしの思い出深い旧日本軍戦没者慰霊碑を、今回約20年ぶりに訪れたのである。


慰霊祭を行った当時は草も刈ってきれいに整地されていた場所が、今は草茫々になっていると再訪前には聞かされていた。しかし、私が行くことを事前に何の連絡もしていなかったのに、行ってみると慰霊祭当日ほどではないにしても、慰霊碑の場所は雑草もなく、明らかに手入れが行われている様子がうかがわれた。


当時お世話になり、ここの管理を担当していた村長は既に亡くなって何年も経つと言う。しかし、村の人たちが日常的に手入れを怠っていなかった様子は、慰霊碑を立てる前の状況を知っている私の眼には、雑草もなく整備されているのが、今の様子を見るとよく判る。


私は戦後生まれであり、日本人であるということ以外には、いわば戦争には何の責任もないと言えば言えないこともない。


しかし、日本軍の帝国主義的侵略である云々という歴史解釈を離れて、当時に赤紙一枚で戦争に駆り出され、しかもこの様な東南アジアの片田舎に派遣され命を落とした人たちを思う一念で、駐在員仲間と作ったその慰霊碑である。


村の人たちに大切にされている状況が何とも言えず嬉しかった。


私は、ビルマの人たちは、我々日本人の眼から見ると、物質的には貧しくとも、素朴で宗教心のあつい人間本来の心の優しさを持った人たちであると、常々思っていたが今回改めて再確認した思いであった。


ビルマの人たちは、今の日本人がともすれば失ってしまった優しい心を持っている。或いは、遠い昔の日本の田舎の心優しいお爺ちゃんお婆ちゃんが持っていた、素焼きの陶器のごとき素朴な人間本来の人の気持ちと、優しさをいまだに持っている。過去3回のべ十数年にわたってビルマに駐在した私は、その経験を通じてそのことを知っている。今回はそれを、改めて再認識して感激した再訪であった。


(追補)


慰霊団の中に唯一の女性がおられた。当時、60歳代後半から70歳過ぎの年齢と思われるSさんといい、埼玉県在住の戦争未亡人であった。


第1回の来訪の時も2回目の来訪も、私一人がSさんを亡き御主人の勤務地を案内する機会を得た。そのSさんからこんな話を聞いた。


『橋本さん、毎回お世話になりますね。私の主人は結婚してから半年もたたないで出征して、戦死したのですよ。主人とは半年も一緒に暮らしていません。あなた方の年代の人には古いと思われるかもしれないけれど、主人の戦死の公報が届いて以来、私はずっと一人身で通してきたのですよ。その主人の派遣されていたビルマのこの地を、自分の目で見たかったので、私ひとりだけが女性ですが、慰霊団に参加させてもらったのです』


一方、Sさんの御主人の戦友であったという慰霊団の一員の方からこんな話も聞いた。


『橋本さん、悪いけどSさんを案内してやってくれませんか。実は、私の戦友であるSさんの御主人は、不寝番(夜警)に立っていたがその交替の時に、無残な死体で発見されたのです。恐らくトラかヒョウであろうが、野生の動物に襲われて喰われたのが明らかでした。この事実を知っている我々は、Sさんを御主人の当時の勤務地に案内するのは心情的にとてもできない。御願いします。但し、御主人が野生の動物に喰われた事は、奥さんには誰も言っていないので、内緒にしておいて欲しい』


(余談ながら、我々の勤務していた工場近辺の古い人たちの話では、餌の少なくなる乾季には、工場建設以前の近辺にはトラやヒョウがよく出たそうである)


慰霊団の人たちの何人かと私は、その後も年賀状程度の文通は続いていた。しかし、高齢の人たちのことでもあり返信が一人来なくなり二人来なくなりする内に、 Sさんとは一番長く文通が続いていた。


高等学校の先生をしておられたというSさんからの毎年の年賀状には、達筆な筆跡で、 『又々ビルマ駐在になられたのですね』とか、『何とか再々度ビルマを訪れたいのですが、歳と共に体が言うことをきかなくなって、思いが叶えられなくなりつつあります』とかの便りを頂いていた。


しかし、昨年出した年賀状への返事は縁者の人からであろうか、この様な便りが届いた。


『毎年年賀状を頂いて有難うございます。本人は高齢でもあり入院しております。もはや返事を書ける状態ではありません』


懸念はあったものの、今年もSさんに年賀状は出したが、今年は遂に何らの返事も来なかった。これでこの慰霊団の人たちとの文通はとうとう途絶えてしまった。


2003年1月


©橋本 裕一

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