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橋本 裕一さんのエッセイEssay by Hirokazu Hashimoto

サンペイさん往訪

by 橋本 裕一

サンペイ(SANPEI)さんの名前は、正しくはウ・サンペイ(U SAN PEI)。



ミヤンマーのプロム(Prome)市(現在はPyi市)でパンやケーキを製造・販売している有名なベーカリー・ショップのご主人である。


ウ・サンペイという発音の名前は、日本人にもよくある名前なので、我々は親しみをこめて『サンペイさん、サンペイさん』と呼んでいた。


先般、20数年ぶりのビルマ旅行でプロム市を訪れたのを機会に、同行者と共にサンペイさんを訪ねた。


今から約20数年前に私がシンデ(Sinde)駐在時代に、買出しや首都ラングーン(Rangoon) から来る日本人技術者の送迎のためイラワディ(Irrawaddy)河を船で渡って、月に数回は私は対岸のプロム市に行っていた。私の仕事の一部であったその送迎の際は必ずといっていいほど、当時50歳前後のサンペイさんのベーカリー・ショップに寄っていた。


(日本政府の円借款で作られた、家電品・農業機械・軽自動車を作る工場が、首都ラングーンから約230キロほど北へ離れたプロム市の対岸のシンデ地区にあった。私は初めての海外駐在で、シンデに駐在していた。当時のシンデ工場は現地人従業員約二千数百名で、それら製品を作る為の技術指導の日本人技術者が十数名駐在していた。それらの技術者が日本と往復したり、ラングーンとの行き来するたびに、川幅千数百メートルのイラワディ河を渡って、プロム市駅に見送り・出迎えをするのも当時の私の任務であったのだ)


サンペイさんの店の一軒置いて隣には、現地名でウ・マゥン・マゥン・カ(U Maung Maung Kha)という現地名を名乗る、第二次大戦中の旧日本兵残留者の吉岡さんが経営する鉄工所のJapan Machinery Workshop(日本鉄工所)があった。出来ればこの吉岡さんに一度お会いして色々な話を聞いてみたいとの思いも、サンペイさんの店に時々寄っていた理由でもあった。(しかし、吉岡さんは旧日本兵残留者ということで、気持ちの上で何らかのこだわりがあるのか、私のシンデ駐在中の約2年半の間には一度もお会いしたことは無かったし、会ってもいただけなかった)


サンペイさんの店に立ち寄るのは、日本人技術者が乗る列車の到着や発車までの時間つぶしの雑談が目的であった。サンペイさんのベーカリーにはパン、ケーキ、クッキー等のお菓子類が売られており、甘いもの好きな私のおやつや、シンデの日本人技術者の宿舎のコックや女中の子供たちにお土産のお菓子を買うためでもあった。(シンデの日本人宿舎には当時ひと組の中国人コック夫婦の家族と合わせて数人の女中がいた)。


サンペイさんは、第二次大戦中は当時ビルマに進駐していた日本軍の通訳をしていたそうで日本語が非常にうまく、日本人には親近感を持っておられた。その当時のプロム近辺には、第2工業省傘下のシンデ工場にいる我々十数名以外には日本人はいなかったせいか、我々には実に親切にしてくれた。


時間つぶしに立ち寄る我々にも、立寄ればいつも嫌な顔ひとつせずに喜んで迎えてくれて、あの当時は非常に値段が高かった輸入もののインスタントコーヒーを出してくれたり、店のケーキを出してくれたものである。


これに甘えて、立ち寄った我々はサンペイさんの店で、時には2-3時間もの雑談で時間つぶしをした。(当時のビルマの鉄道は首都ラングーンからプロムまでの約220−230kmを定刻約8時間程度で走るのであるが、 2-3時間の遅れは普通であった。因みに、日本の新幹線ならば、1時間かせいぜい1時間半の距離である)。


サンペイさんや奥さんはさぞや迷惑であったであろうが、嫌な顔ひとつせずに、サンペイさんから戦争時代の話を聞いたり、当時のビルマの風習や生活の話やよもやま話で過ごすのが常であった。


ある時に、日本政府の経済援助で設置される電話回線設置工事で来ていた西村さんという日本人の電話技術者が、3ヶ月ほどプロムでたった一人で仕事をされていた事があった。その時は西村さんはプロムに一軒しかない粗末なホテルで住んでいた。当時に比べて良くなったとはいえども、今でもミヤンマーは生活物資は日本に比べて格段に不足している。しかも、20年以上も前に、首都のラングーンから200-230kmも離れたプロム(人口2−3万人)という田舎での状況は推して知るべしである。街中では歯磨きも粗悪な物しかなく、トイレットペーパーも拭けば尻が痛いようなもの、要するに日常生活用品は日本でならばとても使い物にならないような物しかなかったほどに必要物資がなかったのである。


こんな中での粗末なホテルでの一人暮らしの西村さんをサンペイさんは気の毒がって、西村さんに毎日の食事を自宅の店先で提供していた。当時サンペイさんは、西村さんについてこう言っていた。


『西村さんは、日本政府が資金を出して協力してくれる援助金で、生活に必要な電話の工事に来てくれている。こんな不便な田舎で、そのような仕事に来てくれている人に不自由な生活をさせてはいけない。せめて私が日本人が食べやすい食事を出してあげなくては・・・』


そう言って、3ヶ月もの間、元々は見ず知らずの日本人に毎日の食事の世話をしていたのだ。サンペイさんはもちろんのこと、奥さんも不平ひとつ言わずに協力されていた。なかなか出来ないことであるが、ビルマ人の気風としてはこれは不思議ではない。ビルマ人とはそういう人たちなのである。


又、ある時に、そのサンペイさんを、我々が住んでいたイラワディ河の対岸であるシンデの日本人宿舎に招待した事があった。新しい技術者が着任したり、任期を終えて技術者が帰国する時は必ず歓送迎会を催していたので、これに招待したのである。


到着したサンペイさんを、我々の宿舎の玄関に出迎えて招き入れた時である。


サンペイさんは、玄関でやにわに直立不動になって、『入ります!』と、はっきりした言葉と大きな声で言ったので驚いた。
聞くと、戦争中に日本軍の通訳であった頃に、当時の日本人の上官から、日本人の家に入る時はこう言うのだときつく教えられたのだそうだ。


戦後生まれで戦争を知らない私は、戦争中の日本軍の教育の一面をはからずもかいま見た気分になったものである。


そのサンペイさんに会いたくて、今回ベーカリーショップに20数年ぶりに訪ねたのである。


当時からプロム市で一番のケーキ屋であったので商売繁盛なのであろう、ベーカリーの店構えは当時の倍くらいに大きくなっていた。あの当時、コーヒーやお菓子を出してくれた見覚えある顔の娘さんが(当時は年頃の娘さんであったが、今はもはや50年配であった)に来訪を告げると、サンペイさんは今は引退して近くの別の場所に住み、隠居暮らしをされておられると言う。その場所にお孫さんが案内してくれるというので我々の車に同乗してもらい、車で10分程度走ったプロムの郊外の別宅に案内してもらった。


既に奥さんを亡くされたサンペイさんは、ミシンやその他の機械ものをいじるのを趣味として、悠々自適の暮らしをしておられるふうであった。


当然であるが、サンペイさんは当時よりかなり年をとられているとお見受けした。サンペイさんは、予告なしの突然の来訪者である私の顔を2-3分間黙ってじっと見ておられたが、“橋本さん!”と言って私が名乗る前に私の名前を思い出してくださった。


20年以上ものあいだ一度も会っておらず、しかも当時30歳直後であった私は既に50歳半ばになっている。体重も70kg前後から80kgにもなって体形もかなり変わっているのに、わずか2-3分顔を見て考えただけで思い出してくれたのである。恐らくは80歳近くにはなろうと思われるミヤンマーの片田舎の老人が、この私を覚えていてくださったのである。


実に嬉しかった。涙がこぼれそうになった。


我々は昼食直後であったので遠慮したのだが、サンペイさんはそんなことにはとんちゃくなく、我々を案内してくれた孫に、ビールや昼食を次々に買いにやらせて歓待してくださった。


お聞きすると今年で79歳になられるという。折角のビールを飲みながらお話を聞いていると、“川島連隊でアラカン山脈を越えて進駐していた頃は・・・・・”とか、“戦争当時は・・・・・”といった話を次々ととめどなく話される。


お目にかかった最初は少し日本語もあやふやであったが、そのうち多少ビールの酔いも手伝ったのか、段々日本語も思い出されて言葉は流暢となり、話は延々と続いた。


心優しく来訪者には親切なビルマ人のことである。その内に話は、“折角プロムまで来たのに、夕食はここで食べなさい、今夜は私の家で泊まってゆきなさい”とかの話まで言ってくださった。


久しぶりに日本人が訪ねて来て、20-30年ぶりに日本語を使って話す機会を持てて、喜んでいろいろと話している老人の昔話を中断させるには忍びないので話を聞いていた。


しかし、我々は当日の夜はラングーンで予定が有り、車で4-5時間かかるがラングーンに帰らねばならなかった。その旨を話したが、なかなかサンペイさんの昔話は終わらない。


ようやくサンペイさんのもとを辞したのは、ラングーンまで車で帰る所要時間を考えると、その夜の予定までにぎりぎりの時間であった。


20数年ぶりの全く突然の訪問であった。80歳直前の老人が久し振りに、自慢の日本語で、日本人を前に喜々として話しているのである。更に、予期なき全く突然の訪問であったにもかかわらず、あの国では今でも相当ぜいたく品であるビールと食事まで出してくれて、今夜は泊まって行けとまで言ってくれているのであった。


先約の予定があるからやむを得なかったとはいうもの、いま少し時間を取って話を聞いてあげるべきであったと、帰路の車中では後悔の念が頭をよぎった。


その一方で、20数年ぶりで懐かしいサンペイさんに会えた感激もあり、後悔と感激とが入り混じったほろ苦い気持ちのヤンゴンまでの帰路約4時間の車中であった。


(Japan Machinery Workshop日本鉄工所の旧日本兵残留者の吉岡さんの消息をお尋ねしたところ、サンペイさんの話では、数年前に亡くなられたという。その吉岡さんの子息で画家であった息子さんも同じく故人となられたそうである)


2003年1月


©橋本 裕一

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