Yangonow Slogan

第5回 一番館 店主 小丸かほりさん

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――「一番館」はヤンゴンの日本料理店の老舗ですが、創業はいつですか。

1996年の5月にオープンしまして、今年の5月でちょうど18年になります。

 

――ということは、第一次ミャンマーブームのころですね。

ちょうど、ブームと同時にお店をオープンしました。今よりもちょっと小さなブームでしたね。毎日のようにいろいろな会社のオープニングや事務所開きがあり、「あ、また違う方がお見えになった」という感じでした。

FMIセンターにほとんどの日本企業のオフィスがあったので、そこから駐在員の皆さんにランチを食べに来ていただき、ここでいろんな情報交換をされていましたね。当時は、銀行さん大手8行、ゼネコンさん、商社さんはもちろんのこと、たくさんの方にお越しいただきました。それが2000年ぐらいまで続いたでしょうか。ちょうど全日空の直行便が関西空港から飛んでいて、観光のお客様も多かったですね。

 

――店名の由来は?

単純に、ミャンマーの方にも覚えやすい名前ということで、ふっと「一番館」という名前が浮かびました。当時うちにいた中国系ミャンマー人のメイドさんに、「これ言いやすいですか」と聞いたら、「言いやすい」と言うんです。それで、あまり考えるよりも「一番館」にしようか、と決めました。

 

緑に囲まれた、「一番館」の外観。

緑に囲まれた、「一番館」の外観。

――そもそも、ヤンゴンで料理店を始めようと思ったきっかけは?

夫の仕事の関係です(※注1)。1995年に阪神淡路大震災がありまして、夫が仕事で借りていた神戸のオフィスにダメージがあったもので。その当時、ちょうど夫がミャンマーで仕事をやり始めていたのですが、ある会社の社長さんが「これからのミャンマーは良くなるよ」とおっしゃって、私たちをサポートしてくださったんです。

それに私が料理が好きで、社長の奥さんに自宅でちょっとお料理を食べていただいたら、「この家庭料理、ミャンマーで出したら受けるんじゃないか」と言われました。「これから(日本料理は)絶対に必要になってくるから、ぜひやりなさい」ということで、サポートしていただき、私も「じゃあ、やらせてもらおうかな」ということでここ(お店の入るビル)を会社からお借りしたんです。

(開店した)初めは10年間くらいだと思っていたのが、もう10年ではきかなくて…。自分がやってみて初めて、「日本人がいないとだめだ」ということが分かったんです。それでヤンゴンにいるかぎりは、とほとんど毎日のようにお店に出ています。ほとんどと、いうか毎日出ていますが…。

厨房の人たちに料理を教え、ホールの人たちにも「お客様は、このお店に入って来られた瞬間から日本を求めていられるんだから」と。日本のマナーやおもてなしを教えて、いつか職種が変わっても、何か彼ら・彼女たちの役に立つだろうから、ということで教えていますね。

※注1)ご主人は、㈱ミャンマーユタニの小丸佳憲さん。

 

――開店までにはどんなご苦労がありましたか。

インフラですね。私もここまでひどいとは思っていなかったのですが、やりかけたので仕方ないという…。とにかく電気と水の確保でしたね。水がなければ商売ができないもので、「これがだめなら次の方法で」と、当時のマネージャーと一緒に努力してやってきました。

 

――お店の内装は本格的な日本の民芸風ですが、資材の調達も大変だったのでは。

内装はオール・チーク(材)ですが極力、木を生かした造りにしたかったので、日本から写真とか本を持って来まして、大工さんに「こういう感じにしてください」とお願いしました。でも彼らは(隣に)付いていないとだめなんですよ。時間が来るとすぐ帰ってしまったり。それでオープンが延びて、2月と言っていたのがもう3月、4月。「もうこれ以上待てない」ということで、最後は付きっきりで5月に完成したんです。

チーク材がふんだんに使われた、落ち着きある内装。

チーク材がふんだんに使われた、落ち着きある内装。

――当時のミャンマーはどんな状況でしたか?日系企業もどんどん増え、日本人がたくさん増えたと思いますが。

増えましたね。ところが日本食レストランはまだ少ないですから、食材を調達するのが大変でした。今日あっても、次の入荷がいつか分からない、ということで。一番困ったのは、おしょうゆが手に入らなくて、タイまで買いに行ったことがあります。

 

第4回 ミャンマーDCR ジェネラルマネージャー  小林政彦さん

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――貴社はいち早くミャンマーに進出されましたが、事務所開設はいつですか。小林さんは、当時からの赴任ですか。

弊社は、2008年の7月14日に設立しました。ただ、こちらのサーベイ(調査)自体は2006年からやっています。2年がかりで、なんとか設立にこぎつけたという感じです。

私は設立してからの赴任で、2008年の9月から正式に赴任しました。

 

――今でこそ設立の許可もスピードアップしていますが。

当時はなかなか整備もできていなくて、何のコネもない状況で来たので、いろいろ調べながらでした。軍事政権だったのもありますし、大きなサイクロンの「ナルギス」が来ていたので政府の機能も止まったりして、なかなかスムーズにはいきませんでしたね。

 

――現在、ミャンマー人スタッフ、日本人スタッフは何名ですか。

ミャンマー人スタッフは約200名で、日本人は5名ですが、社長の赤畑は日本がメインですので、常駐者は4名です。

 

――貴社の事業内容を、簡単にご説明ください。

弊社のお客様は100%日系企業なので、日本の仕事をこちらで請け負ってプログラムを開発し、できたものを日本に送り返す、というのが主な仕事になります。

われわれのグループ会社は9社あるんですが、日本側の親会社であるDCRがその中心となって日本のお客様からお仕事をいただき、日本側が上流工程といわれる要件定義や基本設計作業を請け負い、ミャンマー側が製造工程といわれるプログラム作成・テスト作業を実施するという役割となっています。

 

――貴社の、他の日系IT企業にない強みはなんですか。

2008年からやっていますので、ミャンマー国内である程度ブランド力がある、というのが一つの特長です。採用に関しても、特に広告を多く出してはいませんが、毎年1000人以上の応募が来ますね。それが一つのブランド力なんじゃないかな、と思います。

もちろん(状況は)日々変化していくので、そのアドバンテージがいつまで続くかというのは分からないんですけど、昔からやっていますのでミャンマー人の考え方とかミャンマーでのやり方、風習だとかはよく理解していると思っています。

 

 

第3回 下川ビルディング株式会社 専務      下川有司さん

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――まず、貴社の事業内容を簡単にご説明ください。

下川ビルディングは、貸事務所を主体とした不動産のリース業を行っており、おもに東京の大田区を中心として、地域に密着した事業展開をしています。大森に第1下川ビルを建てたのが昭和41年なので、創業してから50年近くになります。

 

――ミャンマーでホテル事業を展開された経緯を教えてください。

私たちの本業は貸しビル業ですが、一時期はカプセルホテルの営業もしていました。それでマンスリーではなくデイリーな商売に魅力を感じて、今後はホテル業もやっていこう、ということで検討していたんですが、そのさ中に東日本大地震が起こりました。

もともと10年くらい前から中国など海外の視察はしていましたが、このタイミングでリスク分散として海外に不動産投資をしよう、となりました。

そして、社長と私の2人で中国、タイ、ベトナムなどアセアン諸国を観て回っている中で、ミャンマーに民主化という動きが出てきました。そこで視察に来てみたところ、非常に親日的で、なおかつまだ不動産の投資が活発に行われていない。そういう見地から、ミャンマーに投資をすることになりました。そうして何回か足を運んでいた中で、たまたまこちらのランドオーナーとめぐり合い、何度か協議を重ねた結果、合意し、今日に至っています。

 

ホテル・ガンゴウのロビー。

ホテル・ガンゴウのロビー。

――ミャンマーに来られたときの印象はどうでしたか?

私たちはタイで飲食店を展開しているのですが、ミャンマーもタイと同じ仏教国なので似たような雰囲気なのかな、と思っていました。でも初めて空港に降りてみると、バンコクと比べてぜんぜん都市化が進んでいないな、という印象でしたね。

 

――ホテルのオープンまでには、どんなご苦労がありましたか。

オーナーとの契約は、ホテルを建築している途中でしたんですが、建築がなかなか進まなくて、当初想定していた開業予定日から6ヶ月も遅れました。一番の苦労はやはりそこでしょうか。あとは、やっぱり考え方の相違がありましたね。そして、建物に関する不安が若干あります。こちらの建物は日本の建築手法とだいぶ違うので、地震がないとは聞いていますが、やはり耐震の面で不安があります。

 

――「考え方の相違」とは、たとえばどんなことですか。 

まず契約をするときに、言葉の違いもあるでしょうが、(法の整備上の問題で)契約自体の大枠が細分化されていないんですね。大体の大枠は決めているんですが、一つひとつの情報にあいまいな部分が多いな、と思いました。

 

第2回 ミャンマーパークビューグループ代表    正田信子さん

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――簡単なご経歴と、ミャンマーで事業を始めた経緯を教えてください。

日本で大学を卒業した後、西武百貨店に入社しました。当時はセゾングループでしたが、会社が多事業展開をしていて、インターコンチネンタル・ホテルを買収しました。そこで新しいホテルをシンガポールに作ることになり、そのオープンのためにシンガポールに赴任していました。

ミャンマーにはシンガポール赴任中、96年の1月に初めて旅行で訪れました。その年は「ミャンマー観光年」ということで、全日空が日本から直行便を就航するということが決まっていて、ヤンゴンではそこら中でホテルが建設ラッシュでした。そこで「旅行業をやれば、日本からのお客さんが多いのではないか」と思い、1996年5月にミャンマーに移住し旅行会社を作りました。

ミャンマーで会社を作るにあたっては、当時いろいろな外貨規制があり、個人の出資で会社を作るのが難しかったので、まずシンガポールに会社を作ってその会社からミャンマーに投資する、という形で設立しました。

 

――御社の事業内容を、簡単にご説明ください。

ミャンマー国内の旅行手配、ホテルや国内線、車、ガイドをアレンジしています。それから2010年以降は、旅行業務をしている中で、ミャンマーに進出される日系企業の方が増え、不動産のご相談をよく受けるようになりました。そこで、2011年に別会社として「パークビューサービス」を作りました。ここでは、日系企業のオフィスや日本人の方の住居の賃貸斡旋をしています。

 

――ミャンマーで事業をされる上でのご苦労は何でしょうか。

ミャンマーは、日本とは文化とか習慣がまったく違う国ですし、インフラも整っていないので、日本の常識が通用しません。そういった中で、ミャンマーの人たちと仕事をしていかなきゃいけない。その辺りが一番大変でした。また、政情不安(※注1)や天災(※注2)もありましたし。

人でいうと、例えばここの人は、あまり「イエス・ノー」がはっきりしていなくて、何でも「はい、はい」と言います。例えば、こちらが「できますか?」と聞いて、相手が「はい」と答えても、それは「できます」という意味じゃなくて、ぜんぜん理解していなくてもそう答えてしまったりすることがあります。

ここが日本語との違いで、「はい」は「できます」という意味じゃなく「聞きました」という意味。こちらは「できる」と期待していたのが実際はできていない、ということが多いですね。

注1)2007年、反政府デモを取材中の日本人ジャーナリストが治安部隊に射殺された。

注2)2008年、サイクロン「ナルギス」が上陸した。

 

――スタッフを使う上で、工夫している点はありますか。

私たちのお客様は日本の方たちなので、スタッフにはなるべく日本の習慣などを理解して仕事をするように、と教えています。そして逆に、日本のお客様にもミャンマー人のことを分かってもらわなきゃ、というのがありますね。

 

――ミャンマー人の美点はどういった所でしょうか。

とてもホスピタリティの気持ちがありますね。旅行でいらしたお客様の感想でも、一番多いのが「人が良かった」というものです。「パゴダが良かった」とか「遺跡が良かった」じゃなくて、ほとんどの方が「人が良かった」なんです。お客様も滞在中はそんなに多くのミャンマー人と接するわけではないけれど、やはりミャンマーの人たちのような素朴な優しさ、ほほ笑みは、いま日本で忘れられているようなものなのではないでしょうか。

オフィスでの仕事風景。

オフィスでの仕事風景。

 

第1回 KDDIミャンマー 社長 増田正彦さん

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――いつからヤンゴンに赴任されたのですか?

今年(2013年)1月の終わりに会社設立のライセンスを取り、日本人2人でスタートしました。どんどん人数を増やして、今はKDDI出向者の日本人が4人、ミャンマー人が12人の計16人となりました。今後、ますます増やして、お客様に更に良いサービスを届けたいと思っています。

 

――簡単なご経歴と、ミャンマーに来られた経緯を教えてください。

ミャンマーに来る前は、香港(現地法人)に3年いました。それ以前の日本ではずっと、通信モジュールを利用したソリューションの業務を担当していました。問題解決や提案型の営業ですね。携帯電話のデータ通信機能だけをモジュール化した製品を独自で開発し、車の走行データや燃費情報などを収集し、ナビと連携させて安全運転に役立てるとか。セキュリティのサービスで使って、無断進入時に警備員が駆けつけるとか。機械に通信機能を取り付けて世の中のしくみを変えるという仕事をやっていたんですが、それを中国でやりたくて「海外に行きたい」と言った時に送り出されたのが、香港です。

中国展開を3年間やり、また「ちょっと違うチャレンジをほかの国でやりたいな」と思ったときにミャンマー赴任の話があり、「お前が行け」ということになりました。それを言われたのが、(2012年)12月の終わりです。その前の年の8月に一度、短期出張でミャンマーに来たことがあり、その際にとても良い国だなと思っていました。穏やかで、きれいで、人柄もみんないいし、その上、これからのビジネスがあると思いましたので、「行くか?」と言われたときに「行きます」と即返事をし、即赴任した、というのが経緯です。

 

――ミャンマーの一番の魅力はどこでしょうか?

やっぱり人でしょうか。ただ、お金持ちには悪い人がいる、というのはよく聞きますけど(笑)。当社のメンバーもそうですが、若い人たちはすごくまじめだし、正直だし、勤勉だし、仲間を大事にする、そういうところがとても良いと思います。ただその反面、みんな「イエス」と言って(仕事を)引き受けちゃう。それで、なかなか仕事が進んでいないことがありますけどね。でも人の素の部分が非常に良いので、わたしはミャンマー人が好きです。とても素朴で、おせっかいなくらいいろいろやってくれるじゃないですか。あれがたまらないですね(笑い)。

それが一人のおせっかいじゃなくて、例えばアパートメントで重い荷物を持ってスーツケースを2つくらい持ってエレベーターに来ると、まず警備員が運んでくれます。それをエレベーターに乗せると、今度は一緒にエレベーターに乗っている作業員に「お前、手伝ってやれ」とか言って、また(その作業員が)自分が下りるときに荷物を部屋まで運んでくれる。あれはなかなかできないと思います。そういうところが素直で素朴ですよね。

 

――それでは、ミャンマーの課題点は?

通信・インターネット、インフラがまだまだですね。インターネットがすごく遅い。日本人的にいうと、イライラするくらい遅い。ただ、みなさんは何か代替手段が無いのか?という所で悩み続けている。そういう所が、我々にとってビジネス・チャンスがあると思っています。あとは電気。生活していて、停電をこんなに味わうと思っていなかったんですけど。生活も不便なるし、夜はいいけど朝に停電になると大変じゃないですか、カミさんなんかパニックですよ(笑)。そういう観点で言えば、停電と通信を合わせて改善できるのがビジネス・チャンスですよね。でも、道路の渋滞は勘弁してほしいですよね。

 

――ヤンゴンにはコンピュータ大学を卒業したものの仕事がない、という若者も多いですが、貴社のスタッフは即戦力になっていますか。

いまのメンバーは、みんな即戦力ですね。卒業したばかりの新人が1人いますが、一から教えて育てる、という楽しみもあります。即戦力(のスタッフ)は、スキルを鍛えてもっと生かして、という楽しみと両方あります。、新人はだいたい20代半ばくらいから上は35~36歳くらいのスタッフがいます。

 

――もともとITの知識もあり、日本語もできるスタッフを採用したのですか?

日本語が話せるスタッフは3名います。レンタル・オフィス(ビジネスセンター)ではITスキルはあまり必要でなく、日本的なおもてなしとか気遣いができる人が必要です。わたしが不思議だなと思うのは、(ミャンマーの日本語クラスでは)日本語を教えるだけじゃなくて、日本の文化みたいなものも一緒に教えてくれているんじゃないかな、と思う。だから細かい気遣いができて、日本人に近い感じがしますね。お客様からの評判も上々です。

それと、別の仕事をバリバリやっていた、日本語を話せる女性スタッフが入社してきて、いまITを勉強しながら一生懸命やっていています。いま営業をやらせているんですが、とてもハキハキしていて仕事の進め方がうまいので、これからITを勉強しても大丈夫ですね。

 

――ミャンマー人は勉強熱心で、語学習得能力も高いと言われますね。

社会人になるまでに日本語学習に触れている人が思いのほか多いですね。こちらが「ただいま」とか「さようなら」とミャンマー語で言って、向こうが「おはようございます」とか「お疲れ様でした」と、一生懸命日本語で話そうとしてくれます。そういう意味では面白いですよね。過去いろんな勉強をしているんだな、という感じがします。そして、英語はみんなうまいですよね。(語学の)覚え方のコツがあるんでしょうね。