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  • 7年前、単身ミャンマーへ渡り、以来現地に身を置き激動の時代を生き抜く。企業・政府・マスコミ等との長年に渡るビジネスを通して培ったスキルや現地・日本の人脈をフルに活かした調査・進出コンサルティングは在ミャンマー日本人の中でも随一である。 Since 2001/1/1
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ミャンマーを知る読みもの

歴史

橋本 裕一さんのエッセイ

1 サンペイさん往訪 2011/11/02
2 日本人戦没者慰霊碑再訪 2011/11/02
3 もうひとつのビルマの竪琴 2011/11/02

もうひとつのビルマの竪琴

by 橋本 裕一



日本では、「ビルマの竪琴」は、小説でも、映画でもつとに有名である。 第二次大戦中に、ビルマに派遣された日本兵の中で、日本の敗戦の混乱の中で結果的にビルマに残留兵として残ってしまった水島上等兵を描いた叙情豊かな物語である。

私の2回目のビルマ(現国名はミヤンマー、当時は未だビルマであった)駐在の1980~1985年頃に、首都ラングーンで北村作之丞さんという、当時60歳半ばから70歳前後の年格好のビルマ在住の小柄な日本人と知り合った。既に、ビルマ人女性と現地で結婚されて子供さんもおられた

u-law00.jpg 写真提供・著作権:後藤 修身

    北村さんは、新潟県の出身で第二次世界大戦時にビルマに兵士として派遣されたが、何らかの事情で終戦間近かに日本軍を離れて結果的にビルマに残留し、その後一度も日本に帰国せずにずっとビルマで生活された人である。

    北村さんは、首都ラングーンに初めてできた日本食レストランである「ふるさと」で日本から取り寄せたはっぴを着て、店員として働いておられた。「ふるさと」は、インド系ビルマ人に嫁ついだ“ふじ子”さんという現地在住の鹿児島県出身の日本人女性が経営者であった。彼女は駐在日本人の夫人を顧客の中心とするパーマ屋も経営しておられ、現地の日本人のあいだではかなり知られた日本女性であった。

    その当時、この北村さん以外にも、首都ラングーンではなく地方に住んでおられた別の二人の残留日本兵がおられることは、私は耳にしていた。

    寝釈迦で有名な都市・ペグーで散髪屋を営んでおられた宮城県出身の星さん、イラワジ河中流域のプロムで鉄工所を営んでおられた吉岡さんのお二人であり、お二人とも当時で七十歳前後と聞いていた。 *1

    日本食レストラン「ふるさと」で働いておられた北村さんは、長年のビルマ生活で日本語も少しあやしくなっておられた。また、あまり積極的に人に話しかけるような社交的なタイプの人でもなかった。ビルマに初めてできた日本食堂のある種の店の飾りのような存在で、いくらかの報酬は受け取っておられたのであろうが、何をするわけでもなく手持ち無沙汰な感じで店におられたと記憶する。

    「ふるさと」に来る現地駐在の我々日本人は、比較的無口でこの小柄な旧日本兵には、残留日本兵という立場のひとであるだけに、話しかけるのもどこか躊躇してしまうような感じであった。

    北村さんは、その比較的無口であまり社交的ではない性格と、1メートル60センチに満たないであろう小柄な体格に、苦労をしのばせる皺の多い顔立ちもあって、どこか寂しげな雰囲気をいつも漂わせておられたのを覚えている。

    その北村さんが日本に一時帰国されることになり、小生も出発準備やら其の他のお手伝いをさせていただいたことがある。ご本人には、40-50年ぶりくらいの日本帰国であったそうだ。日本に比べると極端に物の乏しいビルマでの生活とて、私は旅行用スーツケースをお貸しした。

    約二週間の日本への一時帰国からビルマに戻られて、一時帰国中の話をいろいろと伺った。

    言葉少ない人であったので、それまで余りゆっくりと話をした事がなかったが、一時帰国の後は、それまでとは打って変わって、驚くほどよく話されたのを今もよく覚えている。

u-law00.jpg 写真提供・著作権:後藤 修身

    -- 日本に帰って何もかもビックリした。自分の頭の中では日本は相当に変わっていることは、予想していたし聞いてもいたが、何もかもが予想をはるかに超えるものであった。

    -- 特に、都会のビルの多さ、車と人の多さと地下鉄には驚いた。もはや、自分にはあれは日本ではないと言ってよいくらいであった。

    -- 飛行場到着時点から、どこへ行ってもマスコミに追い回されて、ほとほと困った。

    (当時日本では、市川崑監督の「ビルマの竪琴」のリメイク版が中井貴一主演でヒットしていた。このせいもあって、現代版“ビルマの竪琴”の主人公としてかなりの話題になったそうだ)*2

    -- 故郷の新潟にも帰ったが、故郷は懐かしく、兄弟達が歓迎してくれたのは嬉しかった。

    -- 兄弟達は、約半世紀ぶりの弟の帰国を歓迎してくれた。しかし、その一方で、遺産相続を要求されはしまいかと危惧したのか、歓迎してくれているのにどこか雰囲気が冷たく居心地が悪かった。(詳しくは話されなかったが、実際にそのような話も出たと言う)

    -- あのような兄弟と、すっかり変わってしまった日本にはもはや未練はなく、これを機会に二度と日本に帰りたくはない。

    あのおとなしい北村さんが、一気に話されるのを聞いていて、私はさもありなんとの一面と、意外な驚きの両面の感じを受けた。同時に、故国を離れて長年の歳月がそのように北村さんを日本から引き離してしまったのであろうか、との感慨も持った。

    旅行用のスーツケースを貸したことが私と北村さんとの距離を一挙に縮めたのであろうか、残留兵としてビルマの地に留まるようになった事情も、その時に北村さんから初めて聞いた。

    ビルマ西北部で、日本敗戦の報を聞いた後の敗走の途中で部隊とはぐれてしまったのが原因だという。

    たったひとりになってしまい、捕まるのが怖くて寺院に逃げ込み、法衣を着てビルマ僧の姿で約二年をかけて徒歩で首都ラングーンにたどり着いた、というのが真相らしい。

    寺院にかくれたりしてのたった一人での敗走期間に、自分が敗残日本兵であるのを知っていながらもビルマ人は、食べ物を食べさせてくれたり自宅に寝泊りさせてくれた。そのビルマ人の心根のやさしさには、生涯感謝している、とも語ってくれた。

    この辺は、小説や映画の「ビルマの竪琴」の水島上等兵とまったく同じである。

    ラングーンに来て何年か経って、ビルマに日本大使館ができたのは知っていたが、脱走兵とみなされて処罰されるのが怖くて長年名乗り出られなかった。それでもそれから何年か経って名乗り出たのだが、日本大使館との意思疎通の行き違いから、北村さんは、ビルマに在住している在留日本人であるが、もはや“日本への帰国を望まない在留者”として現地日本大使館には登録されてしまった。

    ビルマで結婚して家族が既に出来ていたので、日本へ帰国するのはとうの昔に諦めていたこともあり、敢えて日本大使館には抗議もせずに今まできたのだ、とも語っておられた。

    日本人としては、さぞかさし北村さんは故国へ帰りたい気持ちはあったであろう。しかし、仮に北村さんが無事故国へ帰国したとしても、何十年振りかの帰国で眼にした日本は、北村さんがおふくろのふところに抱かれるように幸せにできたであろうか。 北村さんの戦後の半生は、帰国した方が良かったのか、ビルマで残留して良かったであろうか、私の心の中ではいまだにその結論は出せずにいる。

    今はおそらく故人となっておられるであろう、もうひとつの「ビルマの竪琴」の残留日本兵・北村作之丞さんの思い出である。

2006年11月

    *1北村さんと同じくビルマに残留された吉岡さんも星さんも、北村さんと同様で、脱走兵としての処罰されるのが怖くて名乗り出られなかったとの話は、後日人ずてに聞いた。

    (私の1回目のビルマ駐在は、首都ラングーンから西北西に約200キロ離れた場所であったが、この吉岡さんが住んでおられた場所へは河を渡って30分くらいの行程で近くであった。吉岡さんは、“ジャパン・マシナリー・ワークス”という名の鉄工所を営んでおられた。この残留日本兵の吉岡さんに一度お会いしてお話をうかがいたくて、また私が持っていた味噌・醤油等々の食料品もわけてあげたくて、何度か接触を持とうとしたが、すべて断られ続けた。“敗残脱走日本兵である私が、いまさら日本人とは会えない”というのが理由であるらしかった)

    *2「ビルマの竪琴」は日本では有名であり、市川崑監督で2回映画化されている。第二次世界大戦でのビルマでの敗残日本兵の物語を叙情豊かに描いている物語である。

    その作者である竹山道雄氏は、一度もビルマの地を踏んだ事は無いという。

    また、小説の中でビルマ山中で人食い人種が登場する場面があり(事実は、ビルマには人食い人種はいない)、これを問題視したビルマ政府は、「ビルマの竪琴」をビルマ国内では発禁処分としており、この措置は今も解除されていない。

©橋本 裕一